田端八幡神社と赤紙仁王(東京都北区)~疫病退散の民間信仰

所用で田端へ行ったので、幾つか神社参拝をしてきました。

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田端駅で降りて、ぶらぶらしていたら、こんな「古地図」屋さんがありましたよ。

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境内入り口 お隣のお寺に赤い物体確認。参拝後に寄りました。後ほど・・・。

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参道右手にはたくさんの神輿庫。これだけ神輿庫のある神社は初めてかなあ。

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田端山元講」の石碑

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右の参道を登ると・・・

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富士塚 階段の中腹には、「田端山元講」によって造られた富士塚。

富士浅間神社 山の頂上には浅間神社。

三峯神社 浅間神社の向かい、参道よりに同じく山岳信仰の三峯神社。

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奥には、稲荷神社 まるでお狐さんが話し合っているみたいでした。

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手水舎

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拝殿 とても美しい拝殿でしたよ。

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本殿

この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺 でした。

現在東覚寺の不動堂の前にたっている一対の仁王像(赤紙仁王)は、明治元年(1867)の神仏分離令の発令によって現在地へ移されるまでは、この神社の参道入口に立っていました。江戸時代には門 が閉ざされていて、参詣者が本殿前まで進んで参拝することはできなかったらしく、仁王像のところから参拝するのが通例だったよう です。

参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。

社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月に遷座祭が行われて現在の形になりました。

境内には、稲荷社のほかに田端冨士三峯講が奉祀する冨士浅間社と三峰社があり、冨士浅間社では毎年2月20日に「冨士講の初拝み」として祭事が行われています。

平成9年3月 東京都北区教育委員会

で、参拝後、お隣の東覚寺へ。

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立派なお寺です。お寺の前には・・・

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な、なんですか・・・???

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明王殿前の石造金剛力士立像(赤紙仁王)は1641年に造立。明治維新の神仏分離までは隣の田端八幡神社の参道にあった。病人が、この石像の、自分の患部と同じ位置に赤紙(魔を下す火の色)を貼ると治癒するとされる民間信仰である。その後、願成就して病が治癒すれば草履を奉納する。仁王が祈願者を見舞いに日夜歩くためという。

ユニークな民間信仰ですね^^

寛永18(1641)年8月21日、東覚寺住職賢盛の時代に、宗海という僧侶が願主となって江戸市中に流行していた疫病を鎮めるために造立されたとつたえられます。

コロナ終息を祈願してきました。

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