5.「神社」の基本知識をご紹介~「神道・神社は日本古来の固有のものなのか2」

前回の続きです。自分自身でまとめながら勉強させてもらっているわけですが、この題名の「神道・神社は日本古来の固有のものなのか」ですが、遡るのは、弥生時代(前4世紀 – 後3世紀中頃)~古墳時代(3世紀中頃-7世紀頃)~飛鳥時代(592年 – 710年)~奈良時代(710年 – 794年)~平安時代(794年 – 1185年)であって、それ以前、「神社」以前の宗教的考察は、改めて勉強しないといけないなあと思っている次第です。ただ、その世界は旧石器時代(紀元前14000年頃)~縄文時代(前14000年頃 – 前10世紀)で、遺跡などから紐解いていくのでしょうけれど、いい加減な発信もどうかと思うんですよね。とはいえ興味はありますので、いずれ何処かでまとめようかと思っています。
また、延喜式神名帳に記載された神社の考察や代表的な神社(厳島神社、伊勢神宮、出雲大社、諏訪大社、熊野神社などなど)もいずれ・・・・??^^;

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金生遺跡(北杜市)縄文時代の後期~晩期にかけて祭祀を行った場所とされてる。

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さて、話を戻します。

各地に残る古代朝鮮半島由来の渡来系の神社でさえ多過ぎて、すべてを網羅することはできませんが、前回に続き「高麗神社」にフォーカスして観ていきます。

・665年 百済の男女400人余が近江国(滋賀県)へ。
・666年 百済の男女2000人余が東国(関東地方+山梨・静岡)へ。高麗王若光も。

この日本列島上陸によって各地にその痕跡を観ることができます。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

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高麗山と高来(高麗)神社(神奈川県大磯町)
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高来(高麗)神社・拝殿

・高麗王若光とその集団は朝鮮半島から日本列島の何処に上陸したのか?
相模(神奈川県・大磯町)ではないかと云われています。大磯町には平塚市にまたがる「高麗山」があり、大磯町のhpでも「高句麗からの渡来人が居住し集落を作ったことから高麗山の名前がついたといわれています」の記述があります。

「相模」の「サガ」は朝鮮語の「サガ」で「私の家、社」、つまり朝鮮人の居処の
意味だと云われている。
・相模国の中心部は「高座郡」だが日本書紀では「高倉郡」と記され高句麗人が住んでいたのでその名前がついたとされる。
・高座郡寒川町は、元は「寒河(サガ)と書き、「寒川神社」は渡来人の祀った氏神だという説もある。
箱根の「駒ヶ岳」の「駒」は「高麗」とされ、国内に「駒ヶ岳」という名の山が20ほどある。
・各地神社拝殿前に並ぶ「狛犬」が朝鮮伝来の「高麗犬」と明治神宮も認めている。
・他に「高麗」の名を由来とする「狛(高麗)江」(東京都狛江市)や「巨摩」(山梨県)も「高麗」が転訛したとする説もある。
・高麗神社から分社された「大宮神社」「広瀬神社」「白髭(髯、鬚)神社」は東京・埼玉だけでも130社余りにのぼり、「白髭(髯、鬚)神社」という名称の神社は全国各地にある。
白山神社(全国に約270社余り)の祭神は菊理媛神(ククリヒメ)ですが、「ククリ」とは「高句麗」とされ「朝鮮の巫女」という説もある。

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「九万八千神社」(埼玉県日高市)
「九万八千」は珍しい社名ですが、一説に九万(高麗)と八千(新羅)に由来するものという

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延喜式神名帳に記載された神社の中には、韓国(からくに)神社(兵庫県)など名前だけで渡来系神社と解るような神社が多数載っています。

・大酒神社(京都市)の祭神は「秦の始皇帝」。奈良市の漢國神社(かんごうじんじゃ)の祭神は園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝える。(奈良=ナラ=韓国語で나라(ナラ)の意味は「国、国家」)
「園神」と「韓神」は宮中36神の最古の神とされ、天皇家を守る祭神として平安京の官内省で祀られていた。「園神は新羅系」「韓神は百済系」の渡来の神と云われている。

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では、神社形態(鳥居・境内・拝殿・本殿)の成り立ちも古代朝鮮半島から持ち込まれたのか?これは、はっきりと良くわかりません。「鳥居」さえも名前も形状も諸説たくさんあります。

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環濠集落(周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている)への入り口の鳥居(門?)
佐賀・吉野ケ里遺跡

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佐賀・吉野ヶ里遺跡の「鳥の乗る入り口」

直感的に、これはもしかして「鳥居」の原型???と思い、展示室のお姉さんに尋ねてみたら、そういう説もあると。というわけで調べてみました。

「鳥居」について

鳥居を立てる風習は、神社の建物がつくられるようになる前から存在した。
・古来日本では、屋根のない門という意味で「於上不葺御門(うえふかずのみかど)」ともいった。
・中国の「華表」の訳を鳥居とするので、過去には漢文で「華表」と記したこともあったという。
・鳥居の起源については諸説あり、考古学的起源についてはっきりしたことは分かっていない。
単に木と木を縄で結んだものが鳥居の起こりであると考えられる。
いずれにせよ、8世紀頃に現在の形が確立している。

そのほか主要な説として、
・天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説
・日本の冠木門に起源を求める説
・インド仏教にみられるトーラナや中国の華表や鳥竿、牌楼、朝鮮半島の紅箭門、イスラエルの移動型神殿、雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族の「村の門(ロコーン)」など海外に起源を求める説などがある。
・アカ族の「パトォー・ピー(精霊の門)」という村の入口の門では、上に木彫りらしき鳥が置かれることや、鳥を模した造形物を飾る風習もあることが実地を調査した研究者から報告されていることから、日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説。

アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされる弥生時代の遺蹟である池上・曽根遺跡や纒向遺跡でも見つかっており、また他にも多くの遺蹟でも同様である。

・また、ユダヤ教と関連があるとする説もある(日ユ同祖論)。by wikipedia

どうやら、いろいろある説の一つのようですね。
鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりとも云われているようですし、「鳥」の霊的な解釈においては次のようなものがあります。

・太古の昔から、霊魂が鳥の形をとるということは、インド・ヨーロッパ諸国では広く一般に信じられていた。ラテン語のavesは「鳥類」を意味すると同時に、「祖先の霊」、あるいは死者の魂、または天使、をも意味した。

・ローマの皇帝たちは自分の火葬用の積みまきの上にワシを放って、自分の霊魂を天界に運んでもらい、それで神格を得た。

エジプトの王たちもヘル〔ホルス〕 Horusの聖鳥タカを葬儀のときに空高く放って、それに乗せ、あるいはその中に入れて、自分の霊を天界に運んだ。

キリスト教の聖人たちも、列聖式のときに白いハトを放って、それで霊魂を天界に運んだ。

・人間が幻視の状態にあるとき、あるいは、忘我の状態にあるとき、鳥になった錯覚に陥るのは、死と再生の第一歩に踏み入った象徴として広く見られる現象である。南太平洋、インドネシア、中央アジア、シベリアなどの呪術師たちや予言者たちは、自分は鳥に変身できると言った。

・ヨーガの行者たちは、夢幻の境に入って空を飛ぶことができるのは、ヨーガを修行していちばん最初に体得する呪カである、と言った。「自分が鳥になること、あるいは鳥に乗って運ばれるということは、生きながらにして空へ、また空のかなたへ恍惚として飛んで行けることである」。

ケルトの妖精たちは鳥に変身することができた。そのために彼らは天使のように
 翼ある身として描かれたし、また魔女たちはそのために「魔女の集会」へ飛んで行けたのであった。

・マヤ人やアステカの聖職者たちはすばらしい羽の衣を着ていたが、霊魂を容易に天界へ運ぶ、という機能を持ったものであったと思われる。

鳥は地界と天界の間を自由に行き来するために、いたるところで、霊魂を天界へ運ぶものと考えられたと同時に、天使の 使者であり、予知を与えてくれるものであり、神秘の秘密を持っているものと思われた。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/birds.html様より

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こうして掘り下げてみると、「鳥」は豊穣を願う稲作時代の指針的な役割から、地上界の人々を天界へと導く役割まで果たしていて、それはもう「神の遣い」であったと云えるでしょう。「その神の遣いの鳥」を象徴として村へ入る門を作れば、おのずと村が神に守られると考えるのも当たり前でしょう。祈りや願いが強くなれば、祭祀場所にその門(鳥居)を起き、結界を張り、神の降りる場所とすれば、そこは「神社」となります。鳥~鳥居~神社が結びつきました^^

以上

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関連番外編

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高徳神社(鶴ヶ島市)
大正2年(1913年)に、熊野神社、白髭神社、氷川神社2社の計4社が合祀。
このように時代の流れとともに神社は変化してきた。

滋賀県に鎮座する、「白鬚神社(滋賀県高島市)」は、全国に300社以上ある白鬚神社の総本社。近江最古の神社とも云われています。

白鬚神社(滋賀県高島市)

御 祭 神:猿田彦命 別社名:白鬚明神・比良明神 
由緒:近江最古の大社で、社記によると垂仁天皇の25年(第11代・2000余年前)、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が社殿を御創建(御再建とも)、天武天皇(第40代)の白鳳3年(675)勅旨を以て「比良明神」の号を賜るとある。
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・当社の縁起は謡曲「白鬚」観阿弥作にも謡われ、日本全国に約300の分霊社が祀られている。

・御祭神の猿田彦命は、天孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 降臨の際に先頭に立って道案内をされた神で、導き・道開きの神として知られている。

・社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。

・後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある一方で白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという説もある。by wikipedia

・当社にお祀りされている猿田彦命は白髪で白い鬚を蓄えた老人のお姿で、御社名の由来にもなっている長寿神である。猿田彦命=白鬚明神・比良明神=白髪の老人=高麗王若光。

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以前、仕事で良く埼玉県の北西部を訪れていたのですが、この地域には、「白髭(しらひげ)神社」が、あちこちにありました。

この白髭神社は、埼玉県の日高市を中心として、川越市、狭山市、入間市、飯能市、鶴ヶ島市には、約30社近く点在しています。

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鶴ヶ島市の「白鬚神社」

鶴ヶ島市の「白鬚神社」

奈良時代の創建と伝えられ、武蔵国を開拓するためにこの地に居住し高麗郡をつくった高句麗人たちが築いた神社とされている。
高句麗人は高麗郡に26の神社を創建し、それぞれを村の鎮守として崇敬したという(高麗郡における高句麗人の創建した神社として日高市の高麗神社が有名)。江戸時代頃までは和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)、太田ヶ谷、針うり、脚折の7村(現在全て鶴ヶ島市)の総鎮守として崇拝され、明治時代以降は村社として存在していた。

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高麗郡がおかれた場所は、いわゆる空閑地。弥生時代、古墳時代の集落の跡は発見されていない。この原野を開拓し、田や畑を作り、窯の跡、製鉄の跡等も発見されている。集まった1799人が、短期間のうちに高度な文化的生活を送るようになった。それを実現するための強力な指導者が高麗若光であったと考えられる。

高麗神社も昔は「白髭神社」と呼ばれていた。高麗神社は、高麗若光を祀るとともに、代々直系の子孫が宮司職を継いでおられる。
「白髭神社」は、いつしか、高麗若光のイメージと重なり、本物の「白鬚」をはやした若光を祀る神社へと変遷していったのではないだろうか。この地で言われる「白髭明神」とは、高麗若光に他なりません。

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