北口本宮冨士浅間神社/大塚丘

北口本宮冨士浅間神社/大塚丘

2016-12-09 10:09:26 | ・神社・お寺

2016.12.3 またまた浅間神社巡りをしてきました。これでほぼ廻ったかなー。

それでは、神社編。

最後に、「北口本宮冨士浅間神社」。昨年、浅間神社巡りを始めるきっかけとなった神社です。

前回の投稿はこちら>>>2015.12.5北口本宮冨士浅間神社

駐車場の「浅間茶屋」で昼食。ほうとうを頂き、参拝へ。奥の駐車場からだと丁度大鳥居の手前に出てくるんですねー。

やっぱり大杉に囲まれた荘厳な参道ですね。

大鳥居

随神門

いや~渋いです。

神楽殿

随神門を抜けると目の前に神楽殿があります。

境内に向かう左上から陽が射していて、ちょっと撮りにくかったですが、これはこれで良いのではないかと^^

ちょうど結婚式が行われていました。

拝殿脇より「西宮」

右は「太郎杉」 樹齢1000年。

「夫婦檜」 こちらも樹齢1000年。

でっかいです~。

拝殿 脇から

本殿 脇から 金屏風が見えますね。

拝殿前 右側から

諏訪神社拝殿

「‘浅間神社’の前から‘諏訪神社’はあった」

北口本宮冨士浅間神社の東宮本殿は永禄4年(1561)、西宮本殿は文禄3年(1594)に、本殿は元和元年(1615)に建てられ、

東宮と西宮の両本殿は国の重要文化財に指定されています。

この神社が鎮座する森は‘諏訪の森’と呼ばれ、かつてこのあたりは諏訪神社の神域でした。今でも北口本宮冨士浅間神社境内の

一角には諏訪神社がひっそりと鎮座しています。

この地が記録の中に出てくるのは、文明12年(1480)で「富士山吉田取井立」つまり「富士山の麓の吉田に鳥居が建ちました」

というのが最初で、この時にはまだ諏訪神社や浅間神社といった神社の名前は出てきませんが、この場所が、鳥居が建つような

信仰拠点であったことは間違いありません。その後、明応3年(1494)の記録には「吉田取訪大明神」という記述が見られ、

この時期には諏訪神社が鎮座していたと考えられます。

https://www.pref.yamanashi.jp/smartphone/maizou-bnk/sanngaku-sinnkou/kitaguchihonnguu.html より。

諏訪神社拝殿前の朱塗りの富士山

四方?を鳥居で囲まれています。富士山本宮浅間大社、須山浅間神社、東口本宮富士浅間神社、北口本宮冨士浅間神社

の鳥居でしょうか???? ちょうど北口本宮冨士浅間神社の大鳥居が映り込んじゃいました^^

 

前回は、本殿奥の祖霊社までお参りして帰ったのですが、帰ってから調べてみたら、更に奥に「大塚丘(おつかやま」という

北口本宮冨士浅間神社の創建の場所があると判り、行ってみました。いったん道路に出てしばらく歩くと左側にありましたよ。

「大塚丘(おつかやま」
西暦110年日本武尊東征の折に、途中で立ち寄ったとされており「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と
言葉を残したとされています。大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りし、北口本宮冨士浅間神社の創建となりました。 

その後富士山の噴火があり、当時の国主の紀豊庭(きのとよひろ)が延暦7年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立しました。
これが現在社殿のある場所であり、ここに浅間大神をうつし、大塚丘には日本武尊をお祀りしました。
http://www.fujisanguide.com/forms/info/info_print.aspx?info_id=26304 より。

大檜 樹齢400年、樹高22m、幹周3.88m

境内の夫婦檜と太郎杉は樹齢1000年と云われていて圧倒的な存在感がありますが、この大檜もなかなかの存在感でしたよ。

パワースポットと云われていますが、確かに「畏れ多い空気感がありましたね。

 

参道に戻ると、丸い赤いものが浮き上がっていました。

撮影されていたようですが、後ろ姿がこんなにも境内で浮かび上がっていたとは判らなかったでしょうね。

美しかったです^^

 

「追加」

偶然、国道139号「富士みち」を南下することになりました。ここはブラタモリでも紹介された御師の家がたくさんあるところですね。

金鳥居辺りです。結構交通量がありました。

下宿(富士みちの交差点)の入口には、金鳥居(かなどりい)とよばれる鳥居があります。富士信仰においては、その鳥居から南側を

神聖なものとして考え、御師の家に関わる人間以外の居住は一切許されませんでした。そのため、富士吉田における一般の人々の

生活は、金鳥居より北側を中心に発展していきました。また、神聖な世界に不浄のものが入ることがないように、金鳥居の北側には

閻魔像が設置され、金鳥居からの境界線を見張っていたそうです。http://oshinoie.client.jp/ より。

現在、富士みち沿いに多くの御師の家がありますが、当時は、古吉田(ふるよしだ)とよばれる地域にも多くの御師の家がありました。

しかし、当時の古吉田は、富士山からの雪解け水が原因で度々集落が水害に見舞われ、安定した生活を送るにはとても厳しい状況

でした。そこで、元亀3年(1572)に旧地・古吉田から現在地に多くの御師の家が移転したといわれています。その後、各御師家に

入れ替わりはあるものの、町並みの骨格は大きく変化していないので、現在においても当時の街並みの様子をうかがい知ることが

できます。http://oshinoie.client.jp/ より。

「御師の家」は、富士講の開祖である長谷川角行の弟子たちによって少しずつ利用者が増えていくようになりました。

最盛期には夏の2ヶ月間で8000人もの人々が訪れるほどだったそうです。しかし、御師の家は第2次世界大戦以降衰退が始まり、

廃業していくところが徐々に増えていくようになりました。現在では、大国屋と筒屋だけが営業をしています。

http://oshinoie.client.jp/ より。

あちこちに御師の家がありました。

現在、御師の家の多くが宿泊所としては営業をしていませんが、旧外川家住宅と小佐野家住宅(博物館の復元住宅)は、

市によって公開されているため誰でも見学することが可能だそうです。http://oshinoie.client.jp/ より。

この「富士みち」は、「北口本宮富士浅間神社」へと向かっています。この「富士みち」には駐車場が無く、脇に停めて少し歩いた

わけですが、もう少しゆっくり散策したかったなあと。観光客相手の店もほとんどなく、また電線類地中化も行われていて、

スッキリとして生活感もあまり無かったような・・・。金鳥居から南は神聖な場所でもあるからかな。金鳥居から北側は、生活感満載

な感じでしたけどね。では、神社関連投稿しますよん。

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